体罰問題は、現状の解決案では効果的な解決が望めない

普連土高の元剣道女子部員「体罰で重傷」と告訴

(2013年11月29日08時21分  読売新聞)

引用元(http://www.yomiuri.co.jp/national/news/20131129-OYT1T00027.htm

体操女性コーチ、女子選手を階段から突き落とす

 (2013年12月9日15時54分  読売新聞)

引用元(http://www.yomiuri.co.jp/national/news/20131209-OYT1T00367.htm

 

今年は、体罰に関する記事が多く取り上げられていた。この数週間に取り上げられていた上記2つの記事は、2010年から2011年の出来事である。そして、2013年のこの時期に、ニュースとして取り上げられた。体罰が起きてから数年後に生徒側が教師や組織側を訴えたり、オリンピック関連であること関係しているのだろうか、注目を集めている。

2013年に取り上げられた体罰問題で、記憶に新しいものの中には、桜宮高校の生徒の自殺と体罰の件、浜松日大高校の体罰動画流出の件などがある。

 

まず、体罰は、学校教育法第11条において禁止されている。

参考:文部科学省HP(http://www.mext.go.jp/a_menu/shotou/seitoshidou/1331907.htm

体罰の定義や防止のための研修、組織的な指導体制がとられているようである。

 

上記の参考元である文部科学省の体罰防止の提案は、正しく、倫理的で、まさに聖職者と言われるような教師の理想像としての考えと行動を示唆している。教師でない自分が読んだ感想は、この提案通りに教師が理想的に振る舞ってもらいたいと思ったが、もし、自分が教師の立場で読んだと仮定すると、とてもハードルが高く、プレッシャーも大きいだろうなと考えた。理想的であるがゆえに、とても熱心にならないと、それを実現できなさそうで、いざ実行する立場になると、理性的に考えることより感情的に行動してしまいそうである。教育熱心で、生徒のために頑張る教師ほど、その可能性が高いのではなか。実際に、体罰を行った教師の多くが、生徒にためと思い、体罰を指導の範囲だという認識だったと言っている。強豪校や有名クラブの実績のある指導者ならなおさら、そう言うだろう。

理想的な提案がなされているにも関わらず、実際に、起きてしまい、生徒だけでなく、教師や学校関係者などの多くの人が、体罰問題で不幸になっている。

体罰が起きて、問題となる度に発表される文部科学省の体罰防止に関する提案は、正しい解決方法なのか。おそらく、正しくない。その提案のシナリオに沿って指導すれば、問題は起きないように思えるが、実際はそうでないから問題なのである。

 

図:提案と実際

 

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提案では、①が禁止されているが、実際に起き、③問題となる。その問題が認識される理由として、(A)が最も多い印象。(B)などは、閉鎖的な学校では起きにくいだろうけれど、無くはないだろう。学校で子供が怪我して、病院に行って発覚しただとか、多分そんなとこだろう。

④は、③に変化する可能性がある。(C)のように、生徒が我慢してたり、教師が体罰を懲戒の認識で行っている場合など、第三者から認識されないと明るみにならない状況。おそらく、日本中の多くの教育現場で、潜在的な③である④が多くある。つまり、③問題となるためには、第三者が必要だということ。しかしながら、提案では教師自身の力量に委ねられているのが現実だろうし、教育の場にどうやって第三者の目を入れるかが課題。

 

①でなはく②の懲戒という指導方法には、問題のある生徒を退学や停学いった措置に加え、訓告の他、生徒に肉体的苦痛を与えない限りで、懲戒権の範囲と判断される行為として、注意、起立、居残り、叱責、別室指導、宿題、掃除、学校当番の割当、文書指導などがあるようだ。体罰の代替の指導法としての懲罰だが、その定義からすると、体罰との線引きも難しそうで、状況次第では、懲戒のつもりが体罰になってしまう場合があると考える。部活で体罰が発覚した顧問などは、体罰と懲罰を混同しているのか、体罰という認識は無かったと口を揃えて言う。懲罰のつもりで、叱責していて、生徒を思うあまりつい勢いづいて手をだしてしまう状況も想像できなくもない。

もしかしたら、懲罰と体罰を同義で用いている教師もいるだろう。それは、問題が起きない限り分からないのかもしれないが、取り返しの付かない問題が起きたからでは遅い。

 

以上を踏まえて、解決策を考える。

まず、提案そのものが学校の現場、教員各自に理解されていない可能性がある。実際に①の体罰になっている以上、正しい理解ができていないのではないか。仮に、理解していたとしても、アタマで分かっているけれど、つい行動してしまうなんてことは、この世にいくらでもある。しかも、そのマニュアルは、教師本人にも、簡単に実践できるものではないだろうし、第三者からの適切なフィードバックも得にくいだろう。つまり、提案そのものに改善されるべき課題が多くあるのだと思う。

問題が起きる度に、指導の徹底だとか、再発防止に勤めるなどに終止していて、問題が解決されていないのは改善そのものが正しくないのだろう。どうしてかというと、ただでさえ余裕の無い教師や学校現場には、荷が重過ぎる提案だからである。

 

もし、この提案を教育現場の負担を減らし、楽に解決できそうな策を加えるとすれば、積極的な第三者の導入だろう。

効果は2つある。

 

①   体罰が起きる前に、それを防止しやすい環境になる

②   体罰が起きた後に、それを発覚しやすい環境になる

 

 

①について言えば、例えば、監視カメラなどの、第三の目で体罰を行うような動機を抑えられやすい。犯罪=隙+動機らしい。お店にある監視カメラじゃないが、視角を無くし、動機を抑える。

また、監視カメラは、生徒だけでなく、教師自身を守る役割も果たす。

 

次に②について。監視カメラがあれば、いつ、どこで、何があったかが記録として残る。教師自身がそれを見て客観視できたり、第三者からフィードバックを得られる。教師の体罰の認識が曖昧であることが大きな原因であること、些細なことから体罰に発展しやすい状況を改善できる。

 

しかしながら、監視カメラの設置に疑問を抱く人もいるだろう。プライバシーの問題だとか、必要以上に緊張感が高まるだとか。

でも、現状の提案で問題を効果的に無くせるのだろうか。もちろん、完全に問題が無くなるなんてことは無いだろうが、現状ではその効果が薄い。

教師や教育機関の能力に過剰に期待するのもいいが、それが逆効果になる場合もあるだろうし、そもそもオーバースペックなのかもしれない。それを認めた上で、新しい策として、第三者の目の導入を提案したい。

 

学校で起きている問題というのは、体罰だけでなく、いじめや不登校、教師のあらゆる不祥事がある。

その原因は、学校という場が閉鎖的かつその動機が抑えられにくいことに起因していることが多い。いじめは、死角で行われやすく、いじめといたずらの分別も難しい。不登校は、学校という場で問題を抱え、それを解決できなかったりして、逃げ場がないから起きる問題でもある。

そう考えると、閉鎖的な環境に第三者を目を導入することは、その原因が起きにくくしたり、問題が起きたとしても早い段階で発見し、解決できることに繋がるかもしれない。